私的解釈 MY INTERPRETATION

ヒスイとは 糸魚川ヒスイとミャンマーヒスイ 宝石の視点 大珠と勾玉 糸魚川ヒスイの魅力
国護り パワーストーン 神の力 天津神6体の解釈 腕の値段
職人の定義 現代での勾玉 現代における生命の色 海岸でのヒスイ標石 本物と偽物

初めに、この私的解釈では私自身の意見を述べております。共感できない方や不快に思われる方もいると思いますがご容赦下さい。

ヒスイとは

ヒスイ(翡翠)とはヒスイ輝石という無色透明で小さな結晶(味の素みたいな)が集まって構成されている岩石です。
無色透明な小さな結晶が集まると、雪やかき氷と同じ原理で光が乱反射し私達の目には白色に映ります。希に結晶がもの凄く小さく配列が均等な事により、まるで氷の様に見える透明なヒスイもあります。ヒスイの色は全色あるとされています。クロム・鉄・チタン・墨などの不純物が入ることにより発色するようです。かき氷のシロップと考えれば、分かりやすいかと思います。いつかブルーハワイのようなヒスイと出会いたいものです。
翡翠の名前については中国が起源らしく、カワセミの雄雌の羽色からついたそうです。
ということは古代の日本人は何と呼んでいたのでしょうか…。謎の多いことも翡翠の魅力の一つと言えます。

糸魚川ヒスイとミャンマーヒスイ

鉱物的にはそんなに大差はありませんが、見た目と用途・産出量が大きく違ったりします。ミャンマー産は糸魚川産と比べて上質なヒスイが多く、色も産出量も安定しています。主にジュエリーなどの宝飾品として販売されています。産出量が多いため、価格も割と安く供給することができるようですが一級品になるとやはり高額です。
一方の糸魚川産は「鉱物的にヒスイである」というヒスイは結構ありますが、一般的でいう「ヒスイらしいヒスイ」はなかなか産出されません。希に上質のヒスイがでますが、市場には出ずにコレクターなど個人が所有しています。宝石店として糸魚川産ヒスイを販売するとなると、個人で所有する人達から買い取るしかないと思います。踏んだり蹴ったりな感じですが、二つ糸魚川産ヒスイに優れたものがあります。
一つは悠久より伝わる文化があることです。これはライフスタイルに取り込むことであり、民芸・工芸品や芸術といった分野で生かせる要素です。二つ目は「完全な天然石である」と言うことです。中国経由で仕入れる安価なミャンマー産ヒスイの多くは、着色や樹脂処理を施している品が多いようです。こういったエンハンスやトリートメントはジュエリー業界でも当たり前の事のようです。

鑑別書にはこれらは記載されますが、安価な品は鑑別書を取らないので分からないことが多いです。その点、糸魚川産は国産と言うこともありこういった心配はありません。現代での宝飾品ではなくお守りやアートなどの文化により、着色する考えや技術などが発展しなかったのだろうと思います。日本人として誇らしい文化だと思います。
糸魚川産かミャンマー産かを判断するに当たってのポイントは、その品が「何処で作成されたのか」が重要になります。
そして糸魚川で作成されたのであれば誰が作ったのかまで聞き、本人に確認すれば間違いないです。(面倒ですが…)

宝石の視点

本来ジュエリーはグレードで価格が決まりますが、糸魚川産ヒスイの場合は何故が国産と言うことで高額になります。要するにグレードの高いミャンマー産よりグレードが劣る糸魚川産の方が高額な場合が多いのです。これはある一部の地域での矛盾であり先人達の商法のようです。
ジュエリーは自己顕示欲を満たすためにより美しくなければなりませが、同時に自己満足も満たさなければなりません。自己顕示欲が「美」であり、自己満足が「国産」であるならば、これを満たすことは容易ではないでしょう。
よほどの力とモラルのある業者でなければ対応できないでしょうし、ビジネスとしても成り立たないです。たいていが国産と偽りミャンマー産を販売するでしょう。このことも踏まえて私は糸魚川産ヒスイを、ジュエリーとする必要がないと考えます。
あるいはお客様がヒスイのジュエリー購入において「ミャンマー産でも仕方なし」と覚悟して頂くしかないと思います。
購入側が「騙されない」ようにするか「騙されてもしょうかない」とするかのどちらかだと思います。

大珠と勾玉

日本のヒスイ文化を考えるに当たって、まず定義づけなければならないことは「大珠と勾玉が何であるか?」だと思います。
あの形は一体何を意味するものなのか…。民族文化が好きなデザイナーの観点から考えますとこうなります。
まず樹をイメージします。樹には根があり、幹があり、枝(葉)があります。この場合の根は森羅万象の理、二つで一つのものをさします。
例えば、陰と陽・+と−・SとN・凹と凸・雄と雌などです。根はいくつにも分かれていますが本質は同じです。例をあげた理も名称が違うだけで本質は同じ。その本質を「翡翠文化」として一本化した幹が大珠と勾玉と考えます。
私の中では女と男です。要するに大珠は「女陰」(イザナミ)であり、勾玉は「男根」(イザナギ)であるという考えにたどり着きます。大珠と勾玉は太古に生まれた一番シンプルな性別のデザインなのでは…と。

勾玉に関して今現在で有力な説は「牙」や「胎児」でありますが、これは枝の部分の話だと思います。男性の強さの象徴である男根は「牙」と見られることもあるでしょうし、種を持つ意味でも「胎児」と結びつける事ができます。女性の生みだすことの象徴である女陰は生命と繋がり「植物」の実り(種や果実)にみられ繁栄や平和を表しています。双方に命を与える睾丸と命を生み出す産道に穴があります。これは無限を意味することであり正に神の領域なのでしょう。アダムとイブがエデンを追放される以前はこういった事は神聖な事であり、魂を支える道具であったヒスイを加工してその神聖なものを形作るのは当然と思われます。

糸魚川ヒスイの魅力

糸魚川ヒスイの魅力が何であるか?と聞かれ各々その答えは違うかと思います。私が考える魅力とは「文化」なのだと確信しています。文化とは宝であり、芸術であり、美であります。色や質、一時はこの事に魅力を感じていた時期がありました。(今もある程度は)ですが加工を始めてから学ぶことが多々あります。もっとも大切な要素は「用途」でした。知っての通り糸魚川ヒスイに宝飾品となりえるものはとても少なく、また糸魚川ヒスイを宝飾品にする意味もあまりありません。糸魚川ヒスイはその様な事の為に存在しているのではないように思えます。
時代の背景を取り入れて相応の作品を造ることが、一番糸魚川ヒスイを生かせるのではないでしょうか。そう考えれば糸魚川のヒスイというだけでも大変貴重なものとなると思います。私は私なりのやり方でその文化を継承していきたいと思います。

国譲り

古事記などもある「国譲り」ですがこれは日本国内での話です。しかしもっとスケールを大きくして考えてみました。まず天津神ですが天照は「太陽」、月読は「月」、素戔鳴は海と大国主での大地が合わさり「地球」となります。宇宙規模で考えると「国譲り」とは惑星(天津神)と地球上生物(国津神)の戦と考える事ができると思います。そしてこれは既に一度起こった事ではないでしょうか?人類が生まれる前に地球の住人だった恐竜、彼らは隕石の落下が引き起こした氷河期が原因で絶滅したとされています。
「隕石の落下」これこそが正に「国譲り」だったのでは…?それがきっかけで恐竜が死滅し、人類や数多の新たな生物が誕生・進化した訳ですから。新たな生物が恐竜に代わり国津神になった以上、必ずまた「国譲り」が行われる事でしょう。ですがそれはきっと人間の時間の規模では測れない単位での話しなのだと思います。

パワーストーン

鉱物には特別な力があるとされています。ですが科学的には証明されていません。(磁気や放射能以外は)ではパワーストーンは存在しないのでしょうか?私は存在すると思っていますが、一方的に「力を与えてくれる」というものではないと考えています。
私の考えるパワーストーンとは人体が普段使っていない70%の潜在能力を引き出す「触媒」であると考えています。科学的に言えば「自己暗示」や「自己催眠」などでその力の幾分かが引き出されるのでしょう。私はこれを「覚醒」と呼んでいます。コンクリートを持ってきて「これに力がある」と言われても覚醒はおこりませんが、歴史的に人の身近にあり生活の道具として使われていたものであれば話は別です。これは細胞が記憶しているといっても過言ではないと思います。力は初めから人間に宿っているものと考えています。それを呼び覚ます「覚醒装置」がパワーストーンだと認識しています。自分が「こうありたい」と強く願い所持していれば必ず応えてくれるでしょう。逆に依存してしまい自身での努力を怠ると何も応えてはくれません。

神の力

人が自由に行使できない残り70%の力こそ「神」の力だと思います。人間が全能力を引き出したとすると普段の3倍以上の力を持つことになります。単純計算で身体能力や頭脳が3倍以上になります。そのことで新しい能力も目覚めることでしょう。いわゆる超能力といった類の力を得ると考えられます。人を超えて自然と同等のを持つ…。それは人が言うところの「神の力」だと思います。ですが地球の力に対して器が小さすぎるので目覚めた瞬間に消し飛ぶことでしょう。人には神の力を持つ可能性はあるものの、行使する事は許されていないようです。何事もバランスが大事なのだと思います。

天津神6体の解釈

私が作った神玉での天津神6神の解釈ですが、まず先にも説明したように勾玉をイザナギとし大珠をイザナミと考えた場合、最初の三柱は子ではなく生活を営む為に必要な三種の神器であると考えます。まず鳥之石楠船神は「守り」を本質とし、衣服・靴・鎧・鏡など数多のものから身を守る為に必要な力と考えます。次に火之迦具土神は「制御」を本質とし、使い方次第で守ることも滅ぼすこともできる焔のバランスを保つ力と考えます。
最後に建御雷は「攻め」を本質とし、剣・槍・弓などの武器で狩りや奪い取る為の道具として必要な力と考えます。
鳥之石楠船神は「守りの力」、最後に建御雷は「攻めの力」火之迦具土神は「制御の力」となり、夫婦神の生活を支える力であり三種の神器であったのではと考えます。そしてその生活に支えられながら生まれ育ってきたのが三貴子だと考えます。
私は三貴子をイザナギとイザナミの2人の子だと思っています。文献ではイザナギのみで生んだとされていますが、男だけで子供は生むことは絶対にできません。それがいくら神だからといっても森羅万象の理から外れたことは不可能です。ここら辺の事情には何か奥の深いノイズがあるように思えます。とにかく2人の子なので両親の特徴を受け継いだ三姉弟としてデザインし制作しています。勾玉でありながら大珠を表現する、大珠でありながら勾玉を表現する。これが三貴子のデザインコンセプトです。

腕の値段

私は常々、疑問に思う事があります。それは「腕に値段はあるのか?」という疑問です。
私自身も三年近く委託加工をしていたので感じることがあります。現在での委託加工の加工賃は間違っているのでは…?。
本来いくら原石が持ち込みだとしてもオーダーメイドである以上、販売される商品よりも高額になるはずです。
同じ時間と同じ手間をかけて制作するのですから。むしろ加工に合う原石を選べない訳ですし、やり直しがきかない仕事なので責任が重大です。
もの凄いプレッシャーの中で委託加工を受けてきましたがその割に加工賃が低すぎると感じます。中にはそれを理解してくれる人もいれば、まだ高いと言う人もいます。更に加工賃に見合った程度の品を作れば良い、と言われた事もあります。加工人の立場から言わせてもらうならば、加工賃によって手を抜くような仕事は出来ないです。常に良い品をと努力して仕事に取り組んでいるし、半端な品を世に残すつもりもありません。
ですが世の中は手を抜いた大量生産のヒスイ製品も高値で売れていきます。これを見ると「腕の値段などあったものではない」と思います。
こういったものに囲まれていると加工賃が高いと言われるのは当たり前かもしれません。
大量生産のほとんどの品は中国で作られています。日本から見れば安い賃金というだけで、その国の人達は正当な賃金で雇われています。
日本に生まれた加工人だって正当な賃金を求めても良いのではないでしょうか?小規模な商売となりますが、「誰が作ったか分からない」なんて事のない信用ある品が得られます。それこそが加工人のブランドとなり、所有するお客さんの誇りになると思います。
これはお客さんが何を求めているかという客層にもよるかと思いますが、何事も相手に品を作らせる際には適正価格の範囲での依頼を希望します。 とは言え腕が良い悪いは自分ではなく、お客さんが決めることなのですけど…。

職人の定義

職人と一言でいえば簡単ですが、人それぞれに職人の定義があると思います。簡単に言いますと「何をもって職人とするのか」です。
判断するには腕の善し悪しだったり世間の評価だったりと沢山の要素があります。これを定義するのはなかなか難しい事ですが私なりの定義を記したいと思います。まず職人と呼ばれるには確かな技術が必要です。それと同時に作る品への信念や哲学が絶対不可欠だと感じます。
この定義の最大の要点は職人が作る品は「商品なのか、作品なのか」です。
商品であれば信念や哲学は不必要であり、機械のような正確な作業だけで十分です。作品であるのならば、信念や哲学は必要不可欠であり時として門外不出の品さえあります。現在は勾玉一つをとっても売り安さを理由に形を真似た品が横行しています。本物の勾玉とは己の信念や哲学を込めて作成した作品なのだと思います。「本物を作る側」と「本物を理解する側」があって職人というものが定義できるのだと思います。
森羅万象の理、二つで一つ。本物を作る側と本物を欲する側の二つがあって初めて職人という存在が確立されるのです。

現代での勾玉

現代で作れられいる「勾玉」なのですが果たして本物がいくつあるのでしょうか?
勾玉の本当の誕生理由は初めに作った古代人にしか分からず確認のしようはありませんが、それでも自分なりの哲学をもって作られているのであれば考案者も許してくれるのだろうと思います。ですが現代の勾玉の多くは「ヒスイだから」とか「売りやすいから」といった品が大量にあります。
底が浅く「勾玉の形をした商品」に成り下がっていると思います。
お客さんの層にもよるのですが作り手である以上は自分の作品に対して説明が出来なければいけません。誰が作ったのか、どんな理由で誕生したのかがはっきりと分からない勾玉なら尚のことです。その勾玉をどう捉えているかによって作者の理念や方向性が分かってきます。相手を深く理解するうえで必要な要素だと思います。作り手を理解しその作品を理解してもらえればその品は大切に所有されることでしょう。それは作品が共に生き続ける事と同じ意味を持ちます。記憶から忘れ去られた時に人も品も本当の意味で死をむかえるのです。

現代における生命の色

ヒスイの色は昔から緑色が良いとされています。それは古代人が生命として崇めた色であり身近に感じられる奇跡の象徴であったからでしょう。
では「今現在ではどうなのか?」と考えますと現代は古代よりも視野が広がり、宇宙規模で物事を考える事ができるまでに進歩しました。そして生命の源は青き海にあり宇宙から見た地球もまた「青」ということを知るに至りました。生命の根元である地球が青色であるならば、生命の象徴であるヒスイもまた青色である必要があります。
古代の限られた情報の中で身近な生命の色をヒスイに重ね合わせた時代から、文明が発達した現代の情報を元に、新たにその時代の色をヒスイに宿す必要があると考えます。ですが生命を表す色が変わったからといってその本質は何も変わりません。ただ今の時代でより人に伝わりやすく生活文化にとけ込ませる為にも、その時代での色は必要でしょう。その色を認識して親しみや敬意を潜在意識に根付かせる為にも必要だと考えます。
地球は青く生命の母は海だと言うことは今では誰もが知っている事実です。それを現代でのヒスイ文化に取り入れることは必然的な事でしょう。

海岸でのヒスイ標石

糸魚川の海岸ではヒスイの標石を見つけることができます。太古より海に流れ着き、気の遠くなる年月を経て丸みと独特の肌触りや風合いを持ちます。私はこの自然によって造り出された標石にあえて手を加える必要はないと思います。
加工人が言うのも変なのですが、無駄のない標石を見ると躊躇いをおぼえます。川や海底から拾い上げた拳サイズのヒスイには加工人の出番はありますが、海で削り出され洗練された標石には手の出しようがありません。加工人なのに「勿体ない」という気持ちになり依頼人を諭すこともあります。自然が造り出したものには触れてはいけない領域というものがあるのだと私は理解しています。

本物と偽物

今の世の中には本物よりも偽物が多く存在しています。この世の中で本物と偽物とをハッキリと判断できる基準が必要になっています。全てにおいて共通することに「知的財産」が関わっています。自分の世界を表現するために造り出された企画やデザインはその人のものであり、それ以外の人の介入は全て偽物となります。もっともその人が死に意志をついで作成する後継者であれば別の話です。
商業を優先しすぎるとこの「知的財産」は守られません。発案者の金型やデザイン等を他人が流用して金儲けのために使います。それを行うのはいつの時代も「造る側の人間」ではありません。中国ではコピー品が横行しており問題になっていますが、あれを作っている人も「造る側の人間」ではなく唯の作業員です。また日本人の要望でそれらを作っている実態もあります。
芸術の領域に商業が干渉しすぎるとおかしな方向に進みます。芸術は「深く狭く」商業は「浅く広く」この両方のバランスが大事だと思います。
良いバランスだと「深くて広い」すばらしい文化が生まれます。悪いバランスだと「狭くて浅い」くだらない習慣が出てきます。
このバランスは固定できるものではなく、つねに流動していきます。ですがその流動が許容範囲内であれば悲惨な結果にはならないでしょう。
重要な事はこのバランスは造る側の人間だけでは保てないということです。それを理解し支持してくれるお客さんがあって守られていきます。
商業とはお客さんあってのものですから、狭くて浅いものに需要がなくなれば自然に世の中から消えていきます。意識の低い販売店は狭くて浅いものを巧妙に売り込んできます。購入側がそれがどのような品かを判断できなければ、くだらない習慣はなくならないでしょう。
自分のモラルを信じて慎重な品定めを怠ってはならないと思います。